15年前の今日。
私はオフィスで、遅い昼食を食べているところだった。
赤坂のオフィスビル地下二階のスタバで。
その時、地震があった。
でも大きな建物の地下にいたので、体感は震度3から4くらいの揺れ。
周りの人たちも動かない。
そうしていると、どどどどどっという音とともに、なだれのように人がエスカレーターで地上へ逃げていくのが見えた。
地下鉄に乗っていた人たち、地下鉄のホームにいた人たちの群れだ。
その時になってはじめて、スタバの中でゆったりしていた人たちが
「あれ?やばいのかな?」という空気になり、慌て始め、私も地上へ向かった。
地上に出て、唖然とした。
逃げまどう人々。
そして、地上37階建ての、私が働いているオフィスビルが、右へ左へと大きく揺れていた。
その揺れが「耐震のためにわざと作られた構造」だということは頭では理解していた。
でも、実際に地震で揺れているところなんて見たことなんてなかった。
今にも壊れそうなビル。
建物が右へ傾くと人々は左へ逃げ、
建物が左へ傾くと人々は右へ逃げた。
あのビルの中、オフィスにいた同僚たちの恐怖は、相当なものだっただろう。
ひとりでビルを見上げながら唖然としていると、
一目散に非常階段で逃げてきたという同僚たちが現れた。
「タクシーを拾って帰ろう」ということになり、私もオフィスには戻らず、そのまま一緒に帰った。
地震が発生してすぐだったこともあり、タクシーもすぐにつかまり、渋滞もまだひどくなく、私は家に帰ることができた。
それから半年後、私は友人たちと一緒に福島へボランティアに行った。
ボランティアという名の観光ツアー。
あわよくば出会いもあるかもね、なんて。
ほんとうに恥ずかしい動機とともに、夜行バスに揺られて現地へ向かった。
被災地は、私たちのようなボランティアであふれていた。
震災直後に、いてもたってもいられず現地へ駆けつけたわけでもない。
お金に少し余裕があり、時間もある。
そんな似たような若者たちが、半年もたってから、宿も食事も移動手段も手配されたボランティア活動に手を挙げ、被災地に来ていた。
私たちは班に分かれた。
・がれきの片付けをする班
・仮設住宅に住む人の心のケアをする班
・海からあがった写真などの思い出の品を洗い、体育館へ運ぶ班
私は、海からあがった「思い出の品」を整理する班。
みんな、遺品とは呼ばず、思い出の品という言葉を使っていた。
震災から半年以上経っていても、新しく運ばれてくる思い出の品は次々とある。
思い出の品の多くは、写真や似顔絵、賞状、トロフィー、メダル。
時計や財布、衣類などは別の場所に回されていたようだった。
言われた段取りを覚え、「さあ、どんどんさばいていきましょう」と張り切った私は、
写真の泥を落とし、水で洗い、干す作業をてきぱきと進めた。
写真の中の思い出には、目もくれず。
私の働きぶりに、地元のおばさんが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ねえ、あのね。そんなに早くなくていいの。この写真の中の人が無事でいてほしい、とか、そう思いながら、遅くてもいいから丁寧にやってあげてほしいの。」と。
はっとする私に、おばさんは本当に申し訳なさそうに、
「ごめんね。せっかく東京から、自分のお金で来てくれたのにね。」と続けた。
ごめんなさいは、こっちなのに。
それから私たちは、ゆっくりと写真を洗って干しながら、
「この子かわいいね」とか、「このケーキ、どこのお店のだろうね」とか、たわいもない話をしながら、どうか、みんな、どこかで生きていますように、と願った。
