COCOA'S BLOG

常夏シンガポールより発信中

自己紹介 シンガポールに来るまで

 

幼少時代~高校

1982年7月産まれのかに座、北海道の日本海側にある人口2万人のまちで産まれました。

 

小さい時は人見知りで、街が暗くなる夜が怖いと毎日泣くような、面倒な子供でした。その面倒くささを、「うちの子はなんて感性があるのだ」と言い続けた親ばかな両親、3歳下の弟。

 

明朗快活、学校で人気者、学級委員や生徒会長に積極的に立候補する「陽」の時期が小学校時代。課外活動で夏は水泳と軟式テニスをやり、冬はアルペンスキーをやっていた。

 

「陰」の私が浮き出た中学時代。持ち物検査があり、制服のスカートの丈をはかられ、1分の遅刻で反省文をかかされる「校則」という名の拘束。

それを、一時の我慢と受け止めるほど大人ではなく、学校に行ったり行けなかったりを繰り返した。

 

高校に入って少しはましになったものの、そのころから私はこの田舎から出たい、外の世界を見たい、外国に行きたい、自由の国アメリカに行きたい、と夢見るようになる。

 

特に英語の勉強もせず、目的も持たずに、アメリカに行けば私は変われる、なにかいいことが待っているとバカみたく信じて。

 

アメリカ留学~大学時代

リュックひとつで、友達100人できるかな、と楽観的にアメリカに留学した私。通ってた英語教室の先生の出身地ワシントン州のスポケーンという地区に。

 

ネットで情報を得ることが当たり前でなかった時代、両親が英語教室の先生に、頭を下げて留学手続きをしてもらったことを私は知らなかった。

 

アメリカの大学へ留学する費用の工面が大変で、そのときビジネスが順調だったおじいちゃんにお願いしたことを、私は知らなかった。

 

全てに無知だった私は、友達100人できるところか、白人から差別を受けた。

 

生卵を投げつけられたり、寮のポストに「国へ帰れ」という手紙が入っていたり。私だけプリントが配られなかったり、といった。

 

アメリカへ留学した年に、テロが起こって、留学仲間が何人も帰った。

 

私は日本に帰ったらダメになる気がして、アメリカに居座った。

 

スポケーンで短大を卒業し、その後に興味のあった専攻のある、カリフォルニア州のチコ校に編入。

 

ジャーナリズムを専攻にしようといくつかクラスをとったけど、私の英語力と英語の文章力だと難しいと悟り、わりと簡単と言われるメディア科を専攻。

 

数は多くなくても今でもつながる親友ができた。

アメリカに行く前は、世界中言葉なんて通じなくたって心で通じる、なんて言ってたバカは、必要に迫られ英語を取得した。

 

5年かかり大学を卒業し、しっかりとアメリカナイズされた私は、自信満々で日本に帰ってきて、就職活動をする。

 

はじめての就活と、就職

 

アメリカで就活もしてみたが、就労ビザが難しく断念。

 

東京で就活をするも、おもったほどに就職経験がない英語の話せる帰国子女を欲しい会社がなく、面接作法もなっていない私は手間取った。

 

北海道から面接があるたびに、母親と上京し、ホテルに泊まり、面接に落ちまた北海道に戻るということを繰り返した。

 

留学時代は、名だたる会社の子孫たちと知り合い、日本の有名大学に籍をおきながら留学しているような人たちと夢を語りあったりしたのに。

 

アメリカ時代の友人のつてで、派遣会社を通して派遣社員として日系の証券会社で働くことになる。

 

この派遣会社で働いていた知り合いがやりてで、新卒の私をうまいこと会社に売り込み、派遣ではあるがいきなり私は高給取りOLになった。

 

うまいこと売り込まれた私は、会社にかかってくる電話に「もしもし」とでて怒られたり、年上の男に「YesかNoかを教えてください」といいアメリカナイズぶりを発揮したり、なぞの女扱いされた。

 

だが、同部署の先輩たちと上司にはかわいがられ、ほんとうによくしてもらった。

 

カナダに行く!?

 

初めての会社で働き始め2年弱、世界恐慌リーマンショックが起こった。テレビでは段ボール箱を抱えながら会社から出てくる会社員たちが連日うつしだされた。

 

日本でも派遣切りがはじまり、200人弱の会社の雰囲気は一気に悪くなった。

 

会社が「自主退職」する社員を募集したとき、私の部署の上司と先輩たちはみんな退職願いをだした。

こういうとき、仕事ができる社員ほど辞めることを躊躇しない。

 

私は?

 

会社に居座るの?派遣切りに合うまで?なにがしたいの?という疑問を投げつけられる。自分に。

 

そんなとき、アメリカ留学の時にルームメイトだったカナダ人の友人と電話で話す。

カナダにおいでよ、と彼女は言った。

 

どうやら彼女の住んでいるカルガリーという街では、石油がとれるので仕事があまっており、街が潤っているらしい。

 

うん、行く。私は言った。

 

 

その時、留学時代から付き合って5年になる彼氏がいたけど、私はカナダに住もう。無性にわくわくした。

 

 

カナダに住む

 

もちろんのこと、親に甘えるわけにはいかないので、はじめての就職で貯めた貯金は50万円ほどを握りしめ、私はカナダに住む。

 

1年限定、現地で働けるビザ、THE ワーキングホリデービザでカナダに渡り、1年の間に就職先を探し、その会社にその後のビザをサポートしてもらおうという計画。

 

いざ、友人の住むカルガリーに行ってみると、リーマンショックのあおりを受け、つい最近まで景気のよかったまちは、景気悪くなってた。

 

言ってるのと違うやん、という感じだったが、カナダ人はやさしく、カルガリーは自然豊かで美しい街で、友人の家に一緒に住まわせてもらえて、家族も優しくしてくれ、私はとてもたのしい日々をすごした。

 

いくら生活が楽しくても、私は全財産50万円の無職の女。

5年付き合った彼とは、カナダに来る時点で別れた。

 

とりあえず、ワーホリでお決まりの、日本食レストランで働きながら、現地の会社にアプローチし続けた。

 

私はアメリカの4年制大学を卒業した、2年間みっちりと証券会社で働いた経験もあると、このとき自信を持っていたので、現地の日本食レストランでずっと働くことは嫌だった。

 

リーマンショックで、世界的恐慌の中、日本でも仕事が見つかりにくい中、私はカナダに渡り仕事を探している。そんな滑稽な状況に自分でも笑ってしまったが、300通ほど履歴をだしたその中の1社に受かって働けることになった。

 

2年くらい社会経験のあるジャパニーズを雇ってくれるなんて、物好きな社長。インド系カナダ人の不動産会社の社長は、両親の仕事の関係で神戸で産まれて幼少期を日本で過ごしたらしい。

 

ただそれだけ。だから私を雇ってくれた。

 

そこで私は、経理財務として働く。仕事の後に同僚と川べりでピクニックをしたりと、ワークバランスのとれた楽しい日々を過ごした。

 

会社がビザのサポートもしてくれることになり、このままずっとカナダに住みたいわー、と調子にのっていた矢先、労働ビザが降りなかった。

 

私のせいでも、会社のせいでもない、不景気のために。

 

その時、同じ会社で働いてたフィリピン人同僚のビザも降りず、私よりずっと長くカナダにいる彼も国をでないといけなかった。

 

海外で外国人として働くことへの、無情さをその時に知る。

 

 

東京に舞い戻り、外資系銀行で働く

 

カナダ移住計画が断念し、東京に舞い戻る。

 

当時27歳。

 

アラサーとよばれはじめる、年齢に突入した。

 

カナダにいるときに、前職のアメリカ人上司に、カナダでビザが降りなかったので東京で就職先を探している、というメールをする。

 

彼は今外資系銀行で働いているから、また一緒に働こうと誘ってもらい、東京に戻ってすぐに就職先が決まった。

 

東京、赤坂、外資系銀行、かっこいい響き。

 

そしてこの時、ラッキーなことに東京に一軒家をもつおばさん家族が転勤になり、住んでくれる人を探していた。

 

都内で就職をし、一人暮らしをしていた弟と一緒に、格安でおばさんの一軒家に住みはじめた。

 

実家をはなれてから、年に1度ほどしか会っていなかった弟との2人暮らしには、両親も心配していたけど、干渉しあわない気が合う友人、という感じで、とても快適だった。

 

外資銀行に勤めてから、みるみるうちに私は外資系OLっぽい身なりになった。

 

長い髪を毎朝こてで巻き、ネイルサロンに行き、まつげパーマをかけ、スーツやコートやブーツやヒールにお金をかけ、ホットヨガに通い、西麻布のバーや六本木のクラブに出向き、合コンなんかもした。タバコを吸いビールを飲みながら、仕事にも遊びにも全力投球だった。

 

満ち足りたようなそれでもむなしいような気がしてきた30歳。

 

日本にいると、否応なしに年齢を意識させられる。

 

31歳、高給取り外資系OLにも飽きたころ、私はさらなる「やりがい」キャリアを求めて日系のベンチャーに転職する

 

ブラック企業に転職~退職

 

そうして意気揚々と転職した先は、ブラック企業だった。

 

ブラック企業への転職内容については、過去記事を参考に。

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これをブラック企業か、というのを肌で感じ、精神的にも参ってしまい、迷ったあげくに2か月で会社を辞める。

 

ブラック企業を退職、それからシンガポールに来るようになった理由も、詳しくは過去に記事をかいたらしい。

 

東京で再就職先を探すも、コネで面接をうけるも、心はどんよりとしたまま。

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シンガポールという選択

 

シンガポールという選択は、正直なかった。

 

以前旅行で行ったマレーシアが、そうとうがっかりした国だったので、シンガポールもその仲間だと思い込んでいたのだ。

 

シンガポールを選択枠にいれた理由は↓

 

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シンガポールに魅了される

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シンガポールで仕事を見つけ、生活がはじまる

 

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